VJにおけるシンメトリーとブルース・リー

VJにおけるシンメトリーとブルース・リー


最近の反省点があります。
いきなり反省です。
マッピングをつかって様々なスクリーン設置を時間がないクラブ営業のなかで実験的にためしていますが、前回のAirにおいては正直失敗です。
がびーんとなってしまいますが、理由があるのです。
スクリーンの配置をシンメトリー(対称性)に置いてあるところです。
シンメトリーはそれだけで美しいのです。それだけで美しいものにどんな映像をのせても、それはカッコがつく話であり、やっている本人にとってはプレイしている間には、何の成長もできない形という事です。シンメトリーにする事で安定感と存在感がでます。そういう意味では迫力のある映像効果を出せたとは思うのですが、俺がもとめる美とはつねにシンメトリーから外れたところに持っていきたいと思ってます。

左右対称のスクリーン



心の中で『師』を持つ事は人生でもっとも有意義ことだ。
ここで言う『師』とは、超えなければならない存在であって、崇めたり、教えを乞う相手でもなく、必ず超えなければならないと心にきめた相手である。教えをうけたり影響をうけたり惹かれているのみの相手は、書き終わった教科書や変わらないアイドルと一緒である。
『師』とはライバルであって仲間であって、お互いが切磋琢磨できる相手が望ましい。

屯明書房 『ココロノシとココロノシ』


KLOMA

俺のVJの師はKLOMAです。大きく影響を受けました。その師いわく「シンメトリーはそれだけでかっこいいんだから。かっこいいものを選んじゃダメだよ」。うむ、さすが心の師はいうことが違う。覚えてる人もいるかわかりませんが、KLOMAはプロジェクターを左右反転でシンメトリーに並べる事を嫌ってました。

なぜ、それだけでかっこいいものを使わないのかは、前述のべたように、成長が無いのである。出すだけでかっこいいので自分に甘えが出て素材の作りも出しかたも曖昧になる。そんな事を10年前は考えてやっていました。

うー。最近シンメトリックに甘えてます〜。
単純に映像の動きが、前、後ろ、横、縦、回転となってしまってます。これこそシンメトリーの弊害であって、肝心の奥から斜め前などのヒネリが入った動きが足りなくなってます。ヒネリが入らないと映像の時間軸が一定で肝心のグルーヴがつまらないものになっているのです。
あああ。がんばろう俺。

「シンメトリー」よりも全体のバランスを見出す「コンポジション」を目指して。





シンメトリーは好きです。
シンメトリックな美は絶対的で美しい。

でもね、実際の人間においては完全に左右が対称になる事は無いんですよ。シンメトリーな美は憧れの想像美なんです。自然界には無い存在だと思ってます。


話を長くすると、雪の結晶はシンメトリーであるが、厳密には完璧にシンメトリーなわけではありません。かんたんに書くと、細かな部分の差があり、それが美しさに繋がる訳です。最小単位である原子にいたってもそうだと思います。重力の影響をうけるかぎり完璧なシンメトリーではあり得ない訳です。地球も地軸と公転軌道が若干歪んでいる揺らぎが生命を産む源になっているわけで、人の顔も左右非対称であるから、愛せるのでしょう。好きな人の顔を色々な角度から眺めることが幸せなわけです。ん?おれの趣味か?

ちなみに、キメ顔でジドリをするときは、定期的に角度や顔つきを変えましょう。人から撮られるときも同じです。なぜか。シンメトリーとは関係ないのですが、同じ顔、同じポーズで撮ったり撮られたりすることは写真の中の時間を確実に静止させて魅力のないものへと変えてしまいます。どれも同じでどこも同じ。時間が止まるのは同じポーズだからではなく、撮られる人の思考が停止してるから時間の動きのない写真になってしまうのです。



なんでこんな愚痴っぽいはなしかというと、VJなんて時間をとめたらおしまいな訳ですよ。静止画だしててもそこに時間軸(ミンコフスキー空間)を感じてもらえるようにならないと行けない訳です。要は説教臭く言うと一つの完成系に安心する事無く、たえまない変化を求めていきたいと思ってます。

ここで大好きなアニメ『COWBOY BEBOP』から

ブルース・リーはこう言ったそうだ。「心を空っぽにして、どんな形態も形も捨てて水のようになるんだ。水をコップに注げば水はコップとなるし、水をティーポットに注げば水はティーポットになる。水は流れることも出来るし、激しく打つことも出来る。だから、友よ、水のようになるよう心掛けることだ。」さすが俺の心の師は言う事が違う。

スパイクさんの一言ですね。

もういっちょ。

盆栽は奥が深い。ただカットすればいいというものではない。それぞれの盆栽には個性があり、そいつを活かしてやらなくてはいけないのだ。愚かな人間は何でもかんでも切りそろえようとする。はみ出した部分をただカット、カット、カットするだけだ。だが、そのはみ出した部分が個性であり、オリジナリティであるのだ。そんなこともわからない人間はハサミを持つべきでない。まったく盆栽が気の毒だ。(ジェット)

ジェットさんから一言。


なにが言いたいのかというと。
シンメトリーは美しい、それだけに罠にはまらないよう。
あらゆる角度から眺め、疑い、不揃いなものの中に美しさを見いだせるようなりたいという話です。
心構えは
常に多次元多面的です。
シンメトリックに真正面から一つの捉え方では、対象があるときは良いですが無くなったとき、かけたとき、外れたときに困る結果となると思ってます。
VJをしながら、そういうふうに物事を捉えています。
外に出す事でもないのですが、今年一年はあえて、外に放出していこうと思います。

こうやって自分に問いかける事で、つねに自分の考えを客観的に見れるようになればと思ってます。今年はインプット即アウトプット。

シンメトリックではディスコティックにはなれないのです。

身近な建物、シンボル、マーク。
シンメトリーなものに対する観察をしてみてください。

はい。

ちょっとこわいのですが、こんどはシンメなものの解説でもしたいと思います。



追記

今思いついたのですが、シンメトリックなモチーフを扱うという事は、それだけ対象になるものの存在を安定させるためでしょう。うーん。信仰、霊魂、忠誠などなど。人の気持ちを固定化させるにはシンメトリーを使うのは常識というところです。

VJとしても、意識を集中させたいときにはシンメトリックな映像を流しています。ココ!DJに集中!!みたいなとき。

人としても、今はシンメトリーになるより、コンポジションの一部になりたい。
なんでもバランスよく。シンメもコンポも一緒にいきましょう。

バランスが一番です。
左右どちらもバランスよく。
心もバランスよく。
身体もバランスよく。
シンメトリックだけどそうではなく。
水のように清く滑らかに。
しなやかに強くね。

ちゃんちゃん







LOVE



















このブログの人気の投稿

久留間まもりとVJの関係性

IBIZA(イビサ)MUSIC ONでのVJ その1 Marco Carola、MUSIC ONの始まり

James Turrell と IBIZA サンセット